米子城はなぜなくなったのか、気になったことはありませんか。
米子城は戦で焼失した城ではなく、明治維新後に役割を失い、払い下げや売却を経て建物が取り壊されました。
この記事では、米子城が消えた理由、天守が残らなかった背景、現在の米子城跡で見られる石垣や絶景の魅力まで、観光前にも役立つ形でわかりやすく解説します。
米子城はなぜなくなったのかをわかりやすく解説

米子城は、鳥取県米子市の湊山に築かれた近世城郭です。
かつては五重の天守と四重の副天守を持つ壮麗な城でしたが、現在は建物ではなく石垣や郭が中心です。なぜその姿になったのかを知ると、城跡の見え方が大きく変わります。
米子城は戦で焼けたのではなく明治期に取り壊された
米子城がなくなった理由を考えるとき、まず押さえたいのは「戦で燃えた城ではない」という点です。
多くの人は、天守が残っていないと聞くと火災や合戦を想像しがちですが、米子城の場合は明治期の社会変化が大きく関係しています。江戸時代まで城は政治や防衛の拠点でした。しかし明治維新後、藩の仕組みが変わると、城は以前のような役割を持ちにくくなります。米子城もその流れの中で藩庁へ引き渡され、やがて払い下げられました。
米子城が役目を終えた背景には明治維新があった
明治維新後、日本では武士の時代から近代国家へと社会の仕組みが急速に変わりました。
城はそれまで藩の権威や軍事力を象徴する施設でしたが、新しい時代には維持する意味が薄れていきます。米子城も例外ではありません。江戸時代には鳥取藩の重臣である荒尾氏が管理していましたが、明治2年に藩庁へ引き渡されました。この時点で、米子城は実質的に江戸時代の城としての役目を終えたといえます。
米子城の建物は払い下げ後に売却された
米子城は明治期に士族へ払い下げられ、その後、建物の大半が売られました。
公式情報では、明治6年に建物の大半が売られ、数年後に取り壊されることになったとされています。この「売られた」という点が、米子城がなくなった理由を理解するうえで重要です。城の建物は、当時の人々にとって文化財というより、木材や瓦などの資材として見られる面がありました。
米子城の天守や櫓が残らなかった理由
米子城には、五重の天守と四重の副天守があったと伝えられています。
大小二つの天守を備えた城は見応えがあり、山陰随一の名城とも称されました。それほど立派な建物がなぜ残らなかったのか、不思議に感じる人も多いはずです。理由は、建物が城として使われなくなった後、保存される仕組みが整っていなかったからです。木造の大規模建築は手入れを続けなければ傷み、維持費もかかります。
米子城がなくなった時期と歴史年表
| 時期 | 米子城の主な出来事 |
|---|---|
| 1591年頃 | 吉川広家が湊山を中心に築城を開始 |
| 1602年頃 | 中村一忠の時代に完成したと伝わる |
| 1632年以降 | 荒尾氏が米子城を管理 |
| 1869年 | 米子城が荒尾氏から藩庁へ引き渡される |
| 1873年 | 建物の大半が売られる |
| 数年後 | 建物が取り壊される |
| 2006年 | 本丸・二の丸などが国史跡に指定 |
| 2021年 | 三の丸の一部が追加指定 |
米子城の跡地に今も残る石垣と郭
建物は失われましたが、米子城跡には石垣や郭がよく残っています。
特に天守台、本丸、二の丸、内膳丸などを歩くと、かつての城の規模を体感できます。天守がないから何もない、という場所ではありません。むしろ米子城跡の魅力は、石垣の迫力と地形の使い方にあります。湊山の高低差を生かし、中海を意識した構造を想像しながら歩くと、単なる公園とは違う表情が見えてきます。
米子城の消失が今の絶景につながっている理由
米子城の天守が残っていれば、それはそれで大きな観光資源になったでしょう。
しかし建物がない現在の天守台には、遮るもののない広い眺望があります。大山、日本海、中海、市街地を一望できる景色は、米子城跡ならではの魅力です。失われたものがあるからこそ、今の絶景が際立っているともいえます。
米子城の歴史を築城から廃城までたどる
米子城の消失を理解するには、築城から江戸時代、明治期までの流れを押さえることが欠かせません。米子城は一人の武将だけで完成した城ではなく、複数の時代と支配者の変化を受けながら形づくられました。
米子城の始まりは飯山の砦だった
米子城の始まりは、応仁から文明年間に山名宗之が飯山に築いた砦と伝えられています。現在多くの人が米子城跡として思い浮かべる湊山の本格的な城とは、少し段階が異なります。戦国時代の伯耆地方では、城や砦は地域支配の重要な拠点でした。
吉川広家と中村一忠が築いた近世城郭
湊山に本格的な近世城郭を築き始めたのは、吉川広家とされています。関ヶ原の戦いの後、広家は岩国へ移ることになり、完成を見ることはありませんでした。その後、伯耆国の領主となった中村一忠の時代に、米子城は完成したと伝えられています。
荒尾氏が長く管理した江戸時代の米子城
江戸時代の米子城は、鳥取藩のもとで荒尾氏が長く管理しました。寛永9年以降、荒尾氏は米子城預かりとして城を管理し、明治2年までその役割を担いました。この時代の米子城は、単なる軍事施設ではなく、地域支配や行政の拠点でもありました。
米子城跡で現在見られる見どころ
米子城の建物は残っていませんが、現地には多くの見どころがあります。天守台の眺望、石垣の迫力、城下町に関わる文化財を組み合わせて見ると、米子城跡は「なくなった城」ではなく「想像して楽しむ城」として立ち上がってきます。
天守台から眺める大山・中海・日本海
米子城跡の最大の魅力は、天守台からの眺望です。標高約90メートルの湊山を上ると、米子市街地、中海、日本海、そして大山まで見渡せます。晴れた日には、視界の広がりに思わず足を止める人も多いでしょう。
石垣や枡形虎口に残る城の構造
米子城跡では、石垣や枡形虎口にも注目です。天守がない分、石垣の積み方や曲がり方、通路の狭さなど、城の防御の工夫に目が向きやすくなります。枡形虎口は、敵がまっすぐ進めないようにする出入口の構造です。
旧小原家長屋門や山陰歴史館で深まる理解
米子城跡周辺であわせて訪れたいのが、旧小原家長屋門と米子市立山陰歴史館です。旧小原家長屋門は、米子市で唯一残る武家屋敷の建物とされ、米子城二の丸跡付近に移築保存されています。山陰歴史館では、米子城や城下町に関する資料に触れられます。
米子城がなくなった理由を観光前に知るメリット
米子城跡は、何も知らずに訪れても眺めのよい場所です。しかし、なぜ天守がなくなったのか、どの建物がどこにあったのかを知ってから歩くと、現地の印象は大きく変わります。
現地で石垣を見る視点が変わる
米子城がなぜなくなったのかを知ると、石垣を見る目が変わります。建物がないことを「残念」と感じるだけでなく、石垣が残ったからこそ当時の縄張りを想像できると気づくからです。天守台に立つと、ここに五重の天守があり、隣に四重の副天守があったと想像できます。
写真スポットとしての魅力がわかる
米子城跡は写真スポットとしても人気があります。天守台からのパノラマ、石垣越しの青空、桜の時期の風景、大山を望む構図など、撮りたくなる場面が多くあります。朝や夕方は光がやわらかく、石垣の陰影も出やすくなります。
アクセスや駐車場を事前に確認できる
米子城跡へ行く前には、アクセスと駐車場を確認しておくと安心です。JR米子駅から車や徒歩で向かうことができ、三の丸駐車場や湊山公園駐車場も利用できます。ただし、現地は山道や石段を歩きます。歩きやすい靴で向かいましょう。
米子城はなぜなくなったのかを今に伝える価値
米子城がなくなった理由は、明治期の制度変更や払い下げ、売却、取り壊しにあります。しかし、そこで話を終えるのは少しもったいないことです。失われた建物と残された石垣の両方を見ることで、米子城跡の価値はより深く伝わります。
失われた天守を想像する楽しみ
米子城跡の魅力は、失われた天守を想像できることです。現存天守のように建物そのものを見上げる楽しみはありませんが、天守台に立てば、かつてそこにあった姿を自分の頭の中で組み立てることができます。
史跡整備で高まる米子城跡の魅力
米子城跡は、近年も発掘調査や保存整備が進められています。国史跡としての価値が評価され、三の丸の一部も追加指定されました。これは、米子城跡が単なる昔の名残ではなく、今も研究と活用が続く場所であることを示しています。
米子城跡を未来へ残すためにできること
米子城は建物こそ失われましたが、石垣や郭、眺望は今も多くの人を引きつけています。この場所を未来へ残すには、訪れる人の小さな配慮も欠かせません。石垣に登らない、ゴミを持ち帰る、立入禁止表示を守る、地域の案内に従う。どれも史跡を守るうえで大切です。
まとめ
米子城がなぜなくなったのか、その主な理由は明治維新後に城としての役割を失い、払い下げや売却を経て建物が取り壊されたことにあります。
戦や火災で一気に消えたのではなく、時代の変化の中で姿を変えた城でした。
現在は天守こそありませんが、石垣や郭、天守台からの絶景が残り、失われた建物を想像しながら歩ける貴重な史跡です。
訪れる前には公式情報でアクセスや登城路を確認し、現地では石垣や眺望をじっくり味わってみてください。
今後も保存整備が進めば、米子城跡の価値はさらに多くの人へ伝わっていくでしょう。

